「風が強く吹いている」が出版から十余年経ってアニメ化されたことに感じた運命

 

※アニメ21話まで視聴&小説は未読

※録画を消してしまったのでセリフ等が正確ではありません

 

先を観たら考えが変わってしまいそうなので、現時点の感想を残しておきたくて書いてみます。

 

17話のあるセリフを聞いた時、私は心から思いました。「風が強く吹いている」を観ていて良かった、と。

そのセリフとは、双子が発した「絶対に勝ち目がないのに、何のために頑張るのか」という問いです。私はちょうど似たようなことで悩んでいたので、その疑問に向き合う過程のひとつをこの作品は見せてくれるのだと分かり、救われたような気持ちになったのです。

 

ところで、属するコミュニティによって、良しとされるものは違ってきますね。学校ならテストの点数が高いこと、会社なら仕事が出来ること。駅伝ならば、足が速いこと。

でも寛政大学陸上競技部が一位になることは99%あり得ない。じゃあなんで走るのか。走るのが好きだから?

ジョータもジョージも、もともと陸上が好きだった訳ではありません。他のアオタケのメンバーの多くも。今はそれなりに好きだと思いますが、勝てないと分かっていながら走るには足りない。長距離走が大好きだったニコチャンでさえ、好きな気持ちだけでは続けられなかった。

さて灰二は、双子に対してこう答えました。

「それを知るために走っているんだ」

苦しくても続けるという選択肢があるんですね。

 

少し自分の話をします。

私は楽器演奏が趣味です。でも掛けた時間の割に伸びないし、これから先、一番になったり、誰かに認められたり、そういうことは望めない。それだけが理由で続けてきたのではないことは確かなのですが、じゃあいったい何が好きでやっているのか、よく分からない。それに、自分の不出来と向き合って練習を重ねていくのは苦しいものです。苦しみながら続ける趣味なんて、馬鹿みたいだと思っていました。

別にそれでいいんですよね。馬鹿みたいでも。自分の好きがよく分からなくなっても、何故それでも続けようとしてしまうのか、それを知るためという理由で続けたっていい。ほかの理由でもいい。コミュニティで良しとされるものでなくても、絶対にしてはいけないということはない。

 

私は実際に楽器と距離を置いていました。そんな時期に、風強17話に出会うことが出来た。なんて幸運でしょうか。

 

運命について、じつはもう一点あります。

昨今、SNSの普及によって、「何者かになりたい」という欲求が刺激されやすくなっていると言われています。

私たちはSNSという希薄なコミュニティの中で、良しとされるもの、つまり「何者かになること」を、義務のように捉えてはいないでしょうか。希薄ゆえに、そうでない人もたくさんいるでしょうし、無自覚な場合もあるかもしれません。

でも私のように、"これから先、一番になったり、誰かに認められたり、そういうことは望めない"かもしれないと思って、悩んでいる人も少なくないと思います。そしてその数は、小説風強が出版された2006年と比べると、アニメ風強が放送開始された2018年の方が、ずっと多いに違いありません。

「風が強く吹いている」が今になってアニメ化されたことに、そんな巡りあわせを感じるのです。